(前の記事からの続きです。)
1940年代、戦時中。アメリカのGI達は、(留守中に)価値あるものを盗難から避けるために(注釈:当時は、留守中に価値あるものが盗すまれることは避けられなかった様です)、彼らのお気に入りのデニムパンツを持って海外に行きました。本国では、物資は戦争に使用するため、ウエストオーバーオールの生産は減少しました。戦争が終わると、社会は急激に変化しました。そのことは一つの時代が終わり、新たな時代の始まりを表していました。デニムパンツは、労働着の位置づけが弱まり、戦後のアメリカの繁栄の娯楽との関わりが深まりました。
リーバイス社は、1950年代になってから初めて全国的に自社製品の販売を開始しました。東部と中西部の人々は、ついに、他メーカのジーンズではなく、本物のリーバイスのジーンズを穿くチャンスを得られる様になりました。このことは、社内と製品に多くの変更を導くことになりました。
1954年、伝統的なウエストオーバーオールに初めてジッパーが採用されました。これは、ボタンフライが好きでない西部以外の人々(彼らはジッパー付きのジーンズをそれまで着用してきた人々)からの不満の声への対処でした。同様に、我々はボタンフライを使用することに慣れ親しんだ人から、ボタンがあるべき場所にジッパーがあることに気づいて、辛辣なコメントを頂きました。(注:なんと言ったかは、このビデオの中でDowneyさんが話しています。)我々は両方の製品を(選べる様に)全国に揃えましたが、人々のお気に入りのパンツを変更することは、常にリスクが伴います。
ある事柄について変えることに時間がかかります。その中の一つは、デニム衣料は、重度の肉体労働者にのみ適しているといった概念です。このことをLS&CO.に証明する劇的な出来事が、1951年に起こりました。
歌手のビング・クロスビーはリーバイス・ジーンズの愛好家でした。その年、彼は友人とカナダへハンティングの旅にお気に入りのジーンズをジーンズを着用して出かけました。彼らは、バンクーバーのホテルにチェックインしようとしましたが、彼らはデニムを着用していたため、ホテルの受付(デスククラーク)は彼らに部屋を与えませんでした。デニムの衣類を身に着けた旅人(訪問者)は、そのホテルにふさわしい上流階級の顧客ではないと見なされたようでした。彼らはリーバイスのジーンズを着用していたため、ホテルの受付は彼らの着衣以外の部分に気をとめず、アメリカの最も敬愛される歌手に(宿泊)拒否をするところでした。(幸いな事に、最後のところで、ベルボーイがビング・クロスビーである事に気づきました。)

LS&CO.はこの話を聞いて、ビングのためにデニムのタキシードジャケットを作り、彼が名誉市長であるネバダ州エルコ郡で行われた式典(注:正確にはSilver State Stampede ロデオ大会)において彼にプレゼントしました。
興味深い事に、この特別な贈呈式は、"Levi's Day"または"Blue Denim Day"でもなく、"Blue Serge Day”と呼ばれました。このイベントの運営者にとって、"デニム”と言う言葉は洗練されていないものだったのでしょうか?この答えを知る事はないと思います。
1950年代は全般的にはリーバイス・ジーンズとデニムパンツが熱烈な支持を獲得した年代です。

しかしながら、それは多くの会社の重役が望む様な形ではありませんでした。デニム愛用者の象徴は、"juvenile delinquents"(反社会的な若者)、または、ある新聞は映画やテレビに登場する"motorcycle boys"(オートバイ少年、暴走族の方があっているのかもしれませんが、それもピッタリとは当てはまりません。)
この時代、多くの学校管理者達は、10代の少年(少女)達の体の一部にデニムが見とめられるだけで、反体制派となるきっかけになることを恐れ、デニムをクラスで着用する事を禁じました。
ほとんど全てのアメリカ人は、ブルージーンズを穿く事が若者に与える影響について、強い意見を持っていました。
例として、1957年に我々は、全米のいたるところで数多くの新聞記事広告を行いました。それは、好感度がある雰囲気の少年がリーバイス・ジーンズを穿いているイラスト。広告には、”学校に適しています”("Right For School.")のスローガンが含まれていました。
この広告は多くの親達と一般市民を激高させました。ニュージャージー州にすむ女性は、『サンフランシスコ、西部、そして田舎の地域では"right for school"かもしれないことは認めざるを得ないかもしれませんが、東地区、特にニューヨークではとても悪い印象があり、学校にふさわしくないこと("not right for school")であることは確信を持って言えます。もちろん、そちらでは異なる常識があるかもしれませんし、あなた方の社員はリーバイスのビジネス勘定をしながら、社内でバミューダーショーツやゴルフの格好をすることを許しているのかもしれませんけどね!』
面白い事だと思いませんか?この女性は、どうやって、未来の職場でのカジュアル衣料の流行を予測できたのでしょう?(注:アメリカの西海岸では、2000年頃から職場でカジュアルな格好をするのが標準になっています。)
ある人たちは学校からデニムを排除しようと試みましたが、それと同じ数の人たちはジーンズは良い評価を得るべきだと信じ、ジーンズを着ている若者でも問題を起こしていない人たちがいることを指摘しました。しかし、誰がどのように考えて、行動しても、リーバイス・ジーンズの止めども無く拡大を続ける需要を止める事はできませんでした。1958年の新聞記事には次の様に報道されています。『.....約90%のアメリカの若者はどこの場所でもジーンズを着用しています。例外は、”ベッドと教会の中”だけです。これがこの国おいての大部分をしめていることは事実です。』
この時代(50年代)の出来事は、我が社の最も人気のある製品の名前を変える事になりました。1950年代までは、我々は有名な銅リベットのパンツを"オーバーオール”と呼んでいました。小さな衣料品に入って、オーバーオールを下さい、と言えばリーバイスが渡されました。
しかし、第二次世界大戦後、既に述べた様に、労働者層から娯楽が大好きな10代の少年達、そして、年上の学生たちへと、我々の顧客層は劇的に変わりました。彼らはその製品を”ジーンズ”と呼びました。そして、1960年にリーバイス社は、これらの若い消費者層が我々の製品を受け入れる様になったため、その名前を受け入れるときが来たと決意しました。
(続く)
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1940年代、戦時中。アメリカのGI達は、(留守中に)価値あるものを盗難から避けるために(注釈:当時は、留守中に価値あるものが盗すまれることは避けられなかった様です)、彼らのお気に入りのデニムパンツを持って海外に行きました。本国では、物資は戦争に使用するため、ウエストオーバーオールの生産は減少しました。戦争が終わると、社会は急激に変化しました。そのことは一つの時代が終わり、新たな時代の始まりを表していました。デニムパンツは、労働着の位置づけが弱まり、戦後のアメリカの繁栄の娯楽との関わりが深まりました。
リーバイス社は、1950年代になってから初めて全国的に自社製品の販売を開始しました。東部と中西部の人々は、ついに、他メーカのジーンズではなく、本物のリーバイスのジーンズを穿くチャンスを得られる様になりました。このことは、社内と製品に多くの変更を導くことになりました。
1954年、伝統的なウエストオーバーオールに初めてジッパーが採用されました。これは、ボタンフライが好きでない西部以外の人々(彼らはジッパー付きのジーンズをそれまで着用してきた人々)からの不満の声への対処でした。同様に、我々はボタンフライを使用することに慣れ親しんだ人から、ボタンがあるべき場所にジッパーがあることに気づいて、辛辣なコメントを頂きました。(注:なんと言ったかは、このビデオの中でDowneyさんが話しています。)我々は両方の製品を(選べる様に)全国に揃えましたが、人々のお気に入りのパンツを変更することは、常にリスクが伴います。
ある事柄について変えることに時間がかかります。その中の一つは、デニム衣料は、重度の肉体労働者にのみ適しているといった概念です。このことをLS&CO.に証明する劇的な出来事が、1951年に起こりました。
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ビン・クロスビー |

LS&CO.はこの話を聞いて、ビングのためにデニムのタキシードジャケットを作り、彼が名誉市長であるネバダ州エルコ郡で行われた式典(注:正確にはSilver State Stampede ロデオ大会)において彼にプレゼントしました。
興味深い事に、この特別な贈呈式は、"Levi's Day"または"Blue Denim Day"でもなく、"Blue Serge Day”と呼ばれました。このイベントの運営者にとって、"デニム”と言う言葉は洗練されていないものだったのでしょうか?この答えを知る事はないと思います。
1950年代は全般的にはリーバイス・ジーンズとデニムパンツが熱烈な支持を獲得した年代です。

しかしながら、それは多くの会社の重役が望む様な形ではありませんでした。デニム愛用者の象徴は、"juvenile delinquents"(反社会的な若者)、または、ある新聞は映画やテレビに登場する"motorcycle boys"(オートバイ少年、暴走族の方があっているのかもしれませんが、それもピッタリとは当てはまりません。)
この時代、多くの学校管理者達は、10代の少年(少女)達の体の一部にデニムが見とめられるだけで、反体制派となるきっかけになることを恐れ、デニムをクラスで着用する事を禁じました。
ほとんど全てのアメリカ人は、ブルージーンズを穿く事が若者に与える影響について、強い意見を持っていました。
例として、1957年に我々は、全米のいたるところで数多くの新聞記事広告を行いました。それは、好感度がある雰囲気の少年がリーバイス・ジーンズを穿いているイラスト。広告には、”学校に適しています”("Right For School.")のスローガンが含まれていました。
この広告は多くの親達と一般市民を激高させました。ニュージャージー州にすむ女性は、『サンフランシスコ、西部、そして田舎の地域では"right for school"かもしれないことは認めざるを得ないかもしれませんが、東地区、特にニューヨークではとても悪い印象があり、学校にふさわしくないこと("not right for school")であることは確信を持って言えます。もちろん、そちらでは異なる常識があるかもしれませんし、あなた方の社員はリーバイスのビジネス勘定をしながら、社内でバミューダーショーツやゴルフの格好をすることを許しているのかもしれませんけどね!』
面白い事だと思いませんか?この女性は、どうやって、未来の職場でのカジュアル衣料の流行を予測できたのでしょう?(注:アメリカの西海岸では、2000年頃から職場でカジュアルな格好をするのが標準になっています。)
ある人たちは学校からデニムを排除しようと試みましたが、それと同じ数の人たちはジーンズは良い評価を得るべきだと信じ、ジーンズを着ている若者でも問題を起こしていない人たちがいることを指摘しました。しかし、誰がどのように考えて、行動しても、リーバイス・ジーンズの止めども無く拡大を続ける需要を止める事はできませんでした。1958年の新聞記事には次の様に報道されています。『.....約90%のアメリカの若者はどこの場所でもジーンズを着用しています。例外は、”ベッドと教会の中”だけです。これがこの国おいての大部分をしめていることは事実です。』
この時代(50年代)の出来事は、我が社の最も人気のある製品の名前を変える事になりました。1950年代までは、我々は有名な銅リベットのパンツを"オーバーオール”と呼んでいました。小さな衣料品に入って、オーバーオールを下さい、と言えばリーバイスが渡されました。
しかし、第二次世界大戦後、既に述べた様に、労働者層から娯楽が大好きな10代の少年達、そして、年上の学生たちへと、我々の顧客層は劇的に変わりました。彼らはその製品を”ジーンズ”と呼びました。そして、1960年にリーバイス社は、これらの若い消費者層が我々の製品を受け入れる様になったため、その名前を受け入れるときが来たと決意しました。
(続く)
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