前回の投稿でリーバイスのジーンズについているパッチに込められたメッセージについて紹介しました。リーバイスのジーンズのパッチ等には色々な歴史的背景とメッセージが詰まっていて、それらを今でも引き継いでいます。
今回は、リーバイス社の本社のホームページにある、同社のヒストリアンLynn Downeyさんが作成した"A SHORT HISTORY OF DENIM" (デニムの(簡潔な)歴史)と言うタイトルの文書を訳して紹介します。
デニムは単なる棉の織物・生地以上のものです。:ヒストリアン(歴史研究家)、デザイナー、若者、映画俳優、レポーター、そして作家など、人々の心の中に強い主張を持たせます。今日の織物や衣装のヒストリアン達の間で、特にデニムの真の源についての議論される時、その情熱と興味の極みが見られます。これらの専門家達は何十年にも渡る作業をもとにした調査研究が行われております。その中で、以下の話がデニムの誕生について主流の意見となります、そして続けてリーバイス社がどの様にしてデニムを通じて社会に貢献してきたのかについても論じます。
1969年、"American Fabrics"と言う名の雑誌の作者が、『デニムは最も古くからある生地の一つでありながら、永遠の若さを保ち続けている。』と書き綴りました。『今後も使用され続け、市場から興味を得続けることができるのであれば、デニムは明らかに”永遠の若さ”を得る資格があると言える。』(カーテン、クッション、掛け布等)室内装飾品、パンツ、庇等、17世紀から現代に至るまで、デニムは生成(織られ)、使用され、破棄されてきました。そして、博物館、屋根裏、古物商、歴史的採掘等で目にしたりもします。実直で堅牢な生地として着用したり、そして、怒りに満ちた反体制の主張としても着用されたりしました。さらに、コロンブスの帆船の航海での用いられた伝説、アメリカのカウボーイ達に着用された実績があります。
伝説と実績は、研究家達のデニムの名前自体の元についての議論にも関連してきます。多くの文献では、デニム(denim)はフランス語の"serge de Nimes," フランスにある街、ニームのサージ生地が訛った英語から由来するとしています。しかし、何人かの研究家は、この伝統的な説に懐疑的です。
”デニム”の語源についていくつかの学校での考えとして、パリにある"the Musee de la Mode et du Costume"(モード衣装美術館・博物館)のPascale Gorguet-Ballesterosさんは、これらの件について興味深い調査を行いました。"serge de Nimes,"と呼ばれる生地は17世紀より前からフランスで知られていました。同時期に、"nim"と言う名で知られる生地がフランスにありました。両方の生地ともウールが部分的に使われていました。
"Serge de Nimes"は17世紀の終わり以前にイギリスでも知られていました。そこで『その生地はフランスから輸入されたものか?それとも、イギリスの生地で同じ名前を持つものか?』と言った疑問が生じます。『ある特定の地域の名前がつけられた生地は、しばしば別の場所で作られたものである。その名前は、販売時に生地に保証的な意味で一時的に貸与されたものであったりすることがある。故に、イギリスで購入された"serge de Nimes"は、恐らくイギリスで生産されたもので、フランスのニームで作られたものではない。』と言うのがGorguet-Ballesteros女史による見方です。
”デニム”の語源が"serge de Nime”であるとの見方がどの様にして主流となったのかについては依然として分からないところがあります。Serge de Nimesは、絹とウール(毛)で作られています。しかし、デニムは常に棉です。ここで再び立返ると、両方の生地ともツイル織りではありますが、名前だけの関連のみだと私は思います。"serge de nim"と言うnimと呼ばれるウールを部分的に使用した生地に似ていることを意味するのがdenimの本当の語源では無いだろうか?"serge de Nimes"はより知られた言葉だったため、(英語圏である)イギリスを通過した時、間違った言葉の解釈をされたのではないか?または、イギリスの取引(業)者が、より高級感を感じさせるために、聞こえの良いフランスの名前をイギリスの生地につけたのではないか?本当のところは決して分からない様に思います。
さらに混乱させられることは、同時期に、別の生地で"jean”として知られる生地が存在したことです。この織物については調査の結果、ファスチアン織り、棉、リネン、とウールの混合の厚手の綾織りのものでした。そして、イタリアのGenoaのファスチアンはjeanと呼ばれていました。ここで、本来の場所から名前がつけられた生地であることの論拠が認められます。16世紀に多量にイギリスに輸入されとても人気があった様です。この時代の終わり頃には、jeanはLancashire(ランカシャー、イギリス北西部の州)で生産されていました。18世紀になると、jeanの生地は完全にコットンで作られる様になり、特に何度も洗濯をしても丈夫であることが重宝される男性の衣類に使用されていました。同様にデニムの人気も上昇しつつありました。デニムはjeanより丈夫でより高価でした。そして、この二つの生地は似かよるところが多くありながら、大きな違いが一つありました。それは、デニム(denim)は色付きの糸と白い糸から作られているのに対して、ジーン(jean)は同じ色の二つの糸で織られていることでした。
大西洋の向こう側のアメリカの織物業では、18世紀の後半の同時期に(イギリスを主とする)海外の製造業者から独立するために小規模の生産が始められていました。最初の頃から、棉の繊維は生産ラインにおいて重要な素材でした。マサチューセッツの工場ではデニムとジーンの両方が織られていました。ジョージワシントン大統領は、1789年にこの織物工場の視察をし、コットンを使用して生成するデニムの織物機を見学しました。
米国で"denim"と言う言葉が最初に活字としてなったのはその同じ年のことでした。ロードアイランドの新聞に地元で生産されたデニム(その他の生地を含めて)について報道されました。1792年に発行された本、"The Weavers Draft Book and Clothiers Assistan"では、各種デニムの織り方の技術的なスケッチが含まれていました。
1864年に、東海岸の卸直売所では"New Creek Blues"や"Madison River Browns"(これらは現代的な響きを感じませんか?デニムが”永遠の若さ”であることの現れの例です。)等を含む10の異なる種類のデニムを取り扱っていることを宣伝していました。Webster's Dictionary(注:有名な辞書、イメージ的には日本の広辞苑に近い)では同年に、"denim"の言葉は、"オーバーオール等向けのきめの荒い綿の生地”であると解説しています。
調査によると、19世紀のアメリカではjean(ジーン)とdenim(デニム)は二つの全く異なる生地でした。用途も異なっていました。1849年にニューヨークの衣類製造業者は、茶色、オリーブ色、黒、白、そしてブルージーンのトップコート、ベスト、または、ショートジャケットの広告を発行しました。上等なパンツ(トラウザー)はブルージーン、仕事用のオーバーオールやパンツはブルーで装飾付きのデニムでした。別の広告では、労働者がジーンとデニムの使い道の違いを示す服を身に着けていました。メカニック(機械工)とペインターはブルーデニムで作られたオーバーオールを着用し、一般的な労働者(マニュアル作業以外を含む)は、ジーンで作られたよりテーラードなトラウザーを着用していました。
デニムはその後も、耐久性と利便性の両方が求められる時のワーク・クローズ(仕事着)として使用され続けてきた様です。ジーンは、今言った様な用途が必要とされない場合の一般的な仕事着の生地でした。1942年に発行されたJohn Hoye著作の"Staple Cottonn Fabrics"では、ジーンはタテ糸とヨコ糸が同じ色を使用した棉のサージ(綾織り)生地で、オーバーオール、ワークシャツやスポーツシャツ、医者や看護婦のユニホーム、ブーツや靴のライニング等に使用すると記載されています。デニムについては、Hoye(著者)は、『仕事着のグループの中で最も重要な生地はデニムである。特に、長時間着用し、曲がったりねじれたりする様な場合でも強い生地であり、デニムは丈夫で作業に適している。』と述べています。
この本が書かれた20年後、雑誌American Fabricsにおいて、『我々が織物を人に例えて形容するならば、デニムは実直で、歯に衣着せぬ、気取らない正直な生地である。』と述べた記事を掲載しました。それでは、この実用的で気取らない生地が、どの様にして現在言われる様なものになったのでしょうか?そして、どの様にして、デニムを使用したパンツが、ジーンズと呼ばれる様になったのか?ジーンと呼ばれる生地が使われなくなったのは何時なのか?一つの非常に重要な理由は、今から150年以上前にゴールドラッシュのサンフランシスコに向かったバイエルン生まれのビジネスマンの生涯と仕事から見いだすことができます。
(続き)
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今回は、リーバイス社の本社のホームページにある、同社のヒストリアンLynn Downeyさんが作成した"A SHORT HISTORY OF DENIM" (デニムの(簡潔な)歴史)と言うタイトルの文書を訳して紹介します。
(c) 2007 Lynn Downey
Levi Strauss & Co. Historian
デニムは単なる棉の織物・生地以上のものです。:ヒストリアン(歴史研究家)、デザイナー、若者、映画俳優、レポーター、そして作家など、人々の心の中に強い主張を持たせます。今日の織物や衣装のヒストリアン達の間で、特にデニムの真の源についての議論される時、その情熱と興味の極みが見られます。これらの専門家達は何十年にも渡る作業をもとにした調査研究が行われております。その中で、以下の話がデニムの誕生について主流の意見となります、そして続けてリーバイス社がどの様にしてデニムを通じて社会に貢献してきたのかについても論じます。
1969年、"American Fabrics"と言う名の雑誌の作者が、『デニムは最も古くからある生地の一つでありながら、永遠の若さを保ち続けている。』と書き綴りました。『今後も使用され続け、市場から興味を得続けることができるのであれば、デニムは明らかに”永遠の若さ”を得る資格があると言える。』(カーテン、クッション、掛け布等)室内装飾品、パンツ、庇等、17世紀から現代に至るまで、デニムは生成(織られ)、使用され、破棄されてきました。そして、博物館、屋根裏、古物商、歴史的採掘等で目にしたりもします。実直で堅牢な生地として着用したり、そして、怒りに満ちた反体制の主張としても着用されたりしました。さらに、コロンブスの帆船の航海での用いられた伝説、アメリカのカウボーイ達に着用された実績があります。
伝説と実績は、研究家達のデニムの名前自体の元についての議論にも関連してきます。多くの文献では、デニム(denim)はフランス語の"serge de Nimes," フランスにある街、ニームのサージ生地が訛った英語から由来するとしています。しかし、何人かの研究家は、この伝統的な説に懐疑的です。
”デニム”の語源についていくつかの学校での考えとして、パリにある"the Musee de la Mode et du Costume"(モード衣装美術館・博物館)のPascale Gorguet-Ballesterosさんは、これらの件について興味深い調査を行いました。"serge de Nimes,"と呼ばれる生地は17世紀より前からフランスで知られていました。同時期に、"nim"と言う名で知られる生地がフランスにありました。両方の生地ともウールが部分的に使われていました。
"Serge de Nimes"は17世紀の終わり以前にイギリスでも知られていました。そこで『その生地はフランスから輸入されたものか?それとも、イギリスの生地で同じ名前を持つものか?』と言った疑問が生じます。『ある特定の地域の名前がつけられた生地は、しばしば別の場所で作られたものである。その名前は、販売時に生地に保証的な意味で一時的に貸与されたものであったりすることがある。故に、イギリスで購入された"serge de Nimes"は、恐らくイギリスで生産されたもので、フランスのニームで作られたものではない。』と言うのがGorguet-Ballesteros女史による見方です。
”デニム”の語源が"serge de Nime”であるとの見方がどの様にして主流となったのかについては依然として分からないところがあります。Serge de Nimesは、絹とウール(毛)で作られています。しかし、デニムは常に棉です。ここで再び立返ると、両方の生地ともツイル織りではありますが、名前だけの関連のみだと私は思います。"serge de nim"と言うnimと呼ばれるウールを部分的に使用した生地に似ていることを意味するのがdenimの本当の語源では無いだろうか?"serge de Nimes"はより知られた言葉だったため、(英語圏である)イギリスを通過した時、間違った言葉の解釈をされたのではないか?または、イギリスの取引(業)者が、より高級感を感じさせるために、聞こえの良いフランスの名前をイギリスの生地につけたのではないか?本当のところは決して分からない様に思います。
さらに混乱させられることは、同時期に、別の生地で"jean”として知られる生地が存在したことです。この織物については調査の結果、ファスチアン織り、棉、リネン、とウールの混合の厚手の綾織りのものでした。そして、イタリアのGenoaのファスチアンはjeanと呼ばれていました。ここで、本来の場所から名前がつけられた生地であることの論拠が認められます。16世紀に多量にイギリスに輸入されとても人気があった様です。この時代の終わり頃には、jeanはLancashire(ランカシャー、イギリス北西部の州)で生産されていました。18世紀になると、jeanの生地は完全にコットンで作られる様になり、特に何度も洗濯をしても丈夫であることが重宝される男性の衣類に使用されていました。同様にデニムの人気も上昇しつつありました。デニムはjeanより丈夫でより高価でした。そして、この二つの生地は似かよるところが多くありながら、大きな違いが一つありました。それは、デニム(denim)は色付きの糸と白い糸から作られているのに対して、ジーン(jean)は同じ色の二つの糸で織られていることでした。
大西洋の向こう側のアメリカの織物業では、18世紀の後半の同時期に(イギリスを主とする)海外の製造業者から独立するために小規模の生産が始められていました。最初の頃から、棉の繊維は生産ラインにおいて重要な素材でした。マサチューセッツの工場ではデニムとジーンの両方が織られていました。ジョージワシントン大統領は、1789年にこの織物工場の視察をし、コットンを使用して生成するデニムの織物機を見学しました。
米国で"denim"と言う言葉が最初に活字としてなったのはその同じ年のことでした。ロードアイランドの新聞に地元で生産されたデニム(その他の生地を含めて)について報道されました。1792年に発行された本、"The Weavers Draft Book and Clothiers Assistan"では、各種デニムの織り方の技術的なスケッチが含まれていました。
1864年に、東海岸の卸直売所では"New Creek Blues"や"Madison River Browns"(これらは現代的な響きを感じませんか?デニムが”永遠の若さ”であることの現れの例です。)等を含む10の異なる種類のデニムを取り扱っていることを宣伝していました。Webster's Dictionary(注:有名な辞書、イメージ的には日本の広辞苑に近い)では同年に、"denim"の言葉は、"オーバーオール等向けのきめの荒い綿の生地”であると解説しています。
調査によると、19世紀のアメリカではjean(ジーン)とdenim(デニム)は二つの全く異なる生地でした。用途も異なっていました。1849年にニューヨークの衣類製造業者は、茶色、オリーブ色、黒、白、そしてブルージーンのトップコート、ベスト、または、ショートジャケットの広告を発行しました。上等なパンツ(トラウザー)はブルージーン、仕事用のオーバーオールやパンツはブルーで装飾付きのデニムでした。別の広告では、労働者がジーンとデニムの使い道の違いを示す服を身に着けていました。メカニック(機械工)とペインターはブルーデニムで作られたオーバーオールを着用し、一般的な労働者(マニュアル作業以外を含む)は、ジーンで作られたよりテーラードなトラウザーを着用していました。
デニムはその後も、耐久性と利便性の両方が求められる時のワーク・クローズ(仕事着)として使用され続けてきた様です。ジーンは、今言った様な用途が必要とされない場合の一般的な仕事着の生地でした。1942年に発行されたJohn Hoye著作の"Staple Cottonn Fabrics"では、ジーンはタテ糸とヨコ糸が同じ色を使用した棉のサージ(綾織り)生地で、オーバーオール、ワークシャツやスポーツシャツ、医者や看護婦のユニホーム、ブーツや靴のライニング等に使用すると記載されています。デニムについては、Hoye(著者)は、『仕事着のグループの中で最も重要な生地はデニムである。特に、長時間着用し、曲がったりねじれたりする様な場合でも強い生地であり、デニムは丈夫で作業に適している。』と述べています。
この本が書かれた20年後、雑誌American Fabricsにおいて、『我々が織物を人に例えて形容するならば、デニムは実直で、歯に衣着せぬ、気取らない正直な生地である。』と述べた記事を掲載しました。それでは、この実用的で気取らない生地が、どの様にして現在言われる様なものになったのでしょうか?そして、どの様にして、デニムを使用したパンツが、ジーンズと呼ばれる様になったのか?ジーンと呼ばれる生地が使われなくなったのは何時なのか?一つの非常に重要な理由は、今から150年以上前にゴールドラッシュのサンフランシスコに向かったバイエルン生まれのビジネスマンの生涯と仕事から見いだすことができます。
(続き)
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