(昨日のエントリーからの続きです。)
Levi's Jeans/リーバイス・ジーンズは、ご存知の通り、それを生産する会社の創業者の名前が付けられています。長年、多くの人からLevi Strauss社は、リーヴァイ氏とストラウス氏が始めた会社だと思われていました。また、哲学者/人類学者のクロード・リーヴィ-ストラウス氏の会社だと思う人すらいました。
実際のところは、1829年にドイツのバイエルン地方で生まれた"Loeb" Straussと言う名の人が作った会社です。1947年、Loebと彼の母と二人の姉はドイツを出航し、ドライグッズ(生地、リネン、衣服等)の卸業を営んでいるLoebの異母兄弟のいるニューヨークに向かいました。若きLoeb Straussは兄のところで数年間働き、1853年にアメリカの市民権を得ました。(アメリカに帰化しました。)
その同じ年、彼は新しいことを始めるため、ゴールドラッシュで沸き返るサンフランシスコへ向かって、危険な旅にでることを決意しました。23才のLoebは、衣類・生地(ドライグッズ)の卸売りを自分で始めるため(恐らく、ゴールドラッシュの最中に砂金採集者達に商品を売るのが最も手っ取り早くお金を稼ぐ手段だと考えていたと思われます。)、または、家族経営の西海岸の事業所を立ち上げるため、彼の兄の指示で行ったのかもしれません。
理由はともかく、サンフランシスコは、人々が彼ら自身を再生したり、生活を再出発するために行く様な街でした。このことは、Loebにとっても当て嵌まることが証明されました。Loebは1950年頃に名前を"Levi"に変えました。この変更は我々にとって喜ぶべきことだと思います。そうでなければ、今日、我々が着ているものは、"Loeb's Jeans"(ロエブ・ジーンズ)となっていたことでしょう。
1906年のサンフランシスコ大地震と火災で、LS&CO(リーバイス社)は、事実上全ての記録、在庫と写真を失ってしまったため、若きLevi Straussがどのように事業を始めたのか、顧客探しのために黄金の国に旅立ったのか、その時何を考えていたのかは、私たちは分かりません。
これは会社の取締役、研究者、リーバイス社の歴史に興味がある人々に多くの問題を与えることになります。史実から有名な逸話を分け、ブルージーンズの発明に関わる本当の話を明らかにしようとする時が、その最たる例となります。
何十年間も次の様な話が出回っていました:Levi Straussはサンフランシスコに到着した時、砂金採集者が丈夫でしっかりしたパンツを求めていることを知る。そこで、彼は、ニューヨークから持ってきた生地の在庫から茶色のキャンバス地を取り出し、仕立て屋にパンツを作らせた。その後、彼は生地を青色に染めたり、その後はニームから輸入したデニムに変更した。彼は金属製のリベットをパンツに取り付けるアイディアを、ネバダ州リノ市の仕立て屋から手に入れ、1873年にその手法の特許を取った。
幸いなことに、我が社はかなり以前にリベット使用特許の書類のコピーを手に入れました。そのため、ネバダの仕立て屋のJacob Davisがこのアイディアをひらめき、Levi Straussと一緒にリベットを使用した衣料を製造したことを知っていました。しかし、茶色のキャンバスのパンツの話は、単なる本当に興味深い逸話です。
この話は、19世紀に我が社が販売した厚手の生地を使用した茶色のパンツが見つかったことがきっかけとなって生まれた話だろうと思います。しかし、サンフランシスコ地域の機関による歴史の調査の結果、逸話の中にある真実が判明しました。
1853年にサンフランシスコに到着後、Levis Straussは生地衣類の卸売り業を始めました。彼は、衣類を含む一般的なドライグッズを売っていました。どこの衣類の製造業者のものを扱っていたのかは、残念ながら分かっていません。Leviは懸命に働き、その後の20年間以上の間に高品質の製品を扱っているとの評判を手に入れました。
1872年に、彼は仕立て屋のJacob Davisから手紙を受け取ります。Jacob DavisはLevi Strauss & Co.から生地を購入していたリノ市の仕立て屋で、それまでに炭坑労働者達向けにリベットを使用した衣類を作っていました。(注:原文にminersとなっているので炭坑労働者にしていますが、彼の主要顧客は別の資料では森林伐採者(きこり)となっています。)
Davisは、彼のパテント取得の手助けをしてくれ、そしてこの新しいタイプの衣類を製造するビジネス・パートナーを求めていました。Leviはこれは良い事業機会であると直ちに理解し、1873年にLS&COとDavisは、”ポケット口の取り付け強化の向上"のための特許を取得しました。
二人は製造所を手に入れるとすぐに、茶色の棉のダック(帆布等に使われる丈夫で目の密な平織もの)とブルーのデニムで銅リベットを取り付けた"ウエストオーバーオール”を作り始めました。
恐らくダック地はキャンバス地に似ているため、これらのダックパンツ(1906年の火災を免れて残存)が初期の会社のヒストリアンを混乱させたものと思われます。
(注記:調べましたが、ダックとキャンバスはほぼ同じ意味で使用されている様です。薄手がキャンバスとの話もありますが、境界は重なっている様です。ということで、この箇所の記述・見方については多少議論の余地がありそうです。)
一方、デニムはまさにブルーでした。もちろん、Leviは逸話で言われる様に、茶色の生地を青に染めたりはしませんでしたし、ニームから購入もしませんでした。労働着・作業着として、リベットを使用したパンツは完璧であると確信していたため、冒頭で書いた理由からジーンではなくデニムを使用することにしただろうと思います。作業を行う労働者の衣類向けに非常に丈夫な生地が求められる場合にデニムが使われました。
最初のウエストオーバーオールで使用したデニムは、アメリカ東海岸のニューハンプシャー州、マンチェスターにあるアモスケイグ社(Amoskeag Manufacturing Company)製でした。
アモスケイグ社のある地域は、New Englandとして知られ、アメリカの最初の製織り所が建てられたところで、1873年には彼らの生地は高品質で良く知られていました。アモスケイグは1831年に会社組織となり、1860年代中頃にはデニムの生産を行っていました。(この時期は、南北戦争の時期でもあり、アモスケイグ社は銃の製造も数年間行っていました。)
1914年に製織り所内の社内紙に、LS&CO.とアモスケイグの関係についての記事があります。記事の一部を抜粋すると、『多くの廉価な競合品が提供されているにもかかわらず、アモスケイグデニム衣料の売り上げは上昇し続けています。
これは優れたデニムを使用していることと、リネン糸を使用した縫製等優れた製造技術を使用していることによるものです。リーバイス社の成功へのアモスケイグのデニムの貢献度は少なくありません。そして同様にアモスケイグ・デニムの成功にも繋がっています。広告されている通り、他の全てのデニムより優れています。
Levi Strauss & Co. 社において、Jacob Davisが予想した通り、ダックとデニムのウエストオーバーオールは成功をもたらしました。Levi Straussは、ドライグッズの卸業と衣料の製造業の両方のトップとなりました。ウエストオーバーオールに加えて、リーバイス社はジャケットやその他の外出着をデニムとダックを使用して製造しました。無地やプリントした綿モスリン(薄地の木綿織)のシャツ等も出しました。
Levi Straussは1902年、73才で亡くなりました。彼は、Jacob、 Louis、 Abraham、Sigmund Sternの4人の甥達に繁栄する事業を残しました。彼らは、1906年の災難から会社を再構築することに貢献しました。火災からの焼失を免れた現存する最も古いカタログには、素晴らしい多種に渡るデニム製品が掲載されています。
(続き)
p.s. 上記をお読みになって興味を持たれた方は、フォーラム内にある以下のビデオをご覧になることをお勧めします。英語のビデオですが、この記事を読んでいただいていれば、内容的に重なるところも多く、そして、本記事は活字に対して、当時の画面等のふんだんに登場するので、楽しめるかと思います。
The Oldest Pair of Blue Jeans: 最古のジーンズ
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Levi's Jeans/リーバイス・ジーンズは、ご存知の通り、それを生産する会社の創業者の名前が付けられています。長年、多くの人からLevi Strauss社は、リーヴァイ氏とストラウス氏が始めた会社だと思われていました。また、哲学者/人類学者のクロード・リーヴィ-ストラウス氏の会社だと思う人すらいました。
実際のところは、1829年にドイツのバイエルン地方で生まれた"Loeb" Straussと言う名の人が作った会社です。1947年、Loebと彼の母と二人の姉はドイツを出航し、ドライグッズ(生地、リネン、衣服等)の卸業を営んでいるLoebの異母兄弟のいるニューヨークに向かいました。若きLoeb Straussは兄のところで数年間働き、1853年にアメリカの市民権を得ました。(アメリカに帰化しました。)
その同じ年、彼は新しいことを始めるため、ゴールドラッシュで沸き返るサンフランシスコへ向かって、危険な旅にでることを決意しました。23才のLoebは、衣類・生地(ドライグッズ)の卸売りを自分で始めるため(恐らく、ゴールドラッシュの最中に砂金採集者達に商品を売るのが最も手っ取り早くお金を稼ぐ手段だと考えていたと思われます。)、または、家族経営の西海岸の事業所を立ち上げるため、彼の兄の指示で行ったのかもしれません。
理由はともかく、サンフランシスコは、人々が彼ら自身を再生したり、生活を再出発するために行く様な街でした。このことは、Loebにとっても当て嵌まることが証明されました。Loebは1950年頃に名前を"Levi"に変えました。この変更は我々にとって喜ぶべきことだと思います。そうでなければ、今日、我々が着ているものは、"Loeb's Jeans"(ロエブ・ジーンズ)となっていたことでしょう。
1906年のサンフランシスコ大地震と火災で、LS&CO(リーバイス社)は、事実上全ての記録、在庫と写真を失ってしまったため、若きLevi Straussがどのように事業を始めたのか、顧客探しのために黄金の国に旅立ったのか、その時何を考えていたのかは、私たちは分かりません。
これは会社の取締役、研究者、リーバイス社の歴史に興味がある人々に多くの問題を与えることになります。史実から有名な逸話を分け、ブルージーンズの発明に関わる本当の話を明らかにしようとする時が、その最たる例となります。
何十年間も次の様な話が出回っていました:Levi Straussはサンフランシスコに到着した時、砂金採集者が丈夫でしっかりしたパンツを求めていることを知る。そこで、彼は、ニューヨークから持ってきた生地の在庫から茶色のキャンバス地を取り出し、仕立て屋にパンツを作らせた。その後、彼は生地を青色に染めたり、その後はニームから輸入したデニムに変更した。彼は金属製のリベットをパンツに取り付けるアイディアを、ネバダ州リノ市の仕立て屋から手に入れ、1873年にその手法の特許を取った。
幸いなことに、我が社はかなり以前にリベット使用特許の書類のコピーを手に入れました。そのため、ネバダの仕立て屋のJacob Davisがこのアイディアをひらめき、Levi Straussと一緒にリベットを使用した衣料を製造したことを知っていました。しかし、茶色のキャンバスのパンツの話は、単なる本当に興味深い逸話です。
この話は、19世紀に我が社が販売した厚手の生地を使用した茶色のパンツが見つかったことがきっかけとなって生まれた話だろうと思います。しかし、サンフランシスコ地域の機関による歴史の調査の結果、逸話の中にある真実が判明しました。
1853年にサンフランシスコに到着後、Levis Straussは生地衣類の卸売り業を始めました。彼は、衣類を含む一般的なドライグッズを売っていました。どこの衣類の製造業者のものを扱っていたのかは、残念ながら分かっていません。Leviは懸命に働き、その後の20年間以上の間に高品質の製品を扱っているとの評判を手に入れました。
1872年に、彼は仕立て屋のJacob Davisから手紙を受け取ります。Jacob DavisはLevi Strauss & Co.から生地を購入していたリノ市の仕立て屋で、それまでに炭坑労働者達向けにリベットを使用した衣類を作っていました。(注:原文にminersとなっているので炭坑労働者にしていますが、彼の主要顧客は別の資料では森林伐採者(きこり)となっています。)
Davisは、彼のパテント取得の手助けをしてくれ、そしてこの新しいタイプの衣類を製造するビジネス・パートナーを求めていました。Leviはこれは良い事業機会であると直ちに理解し、1873年にLS&COとDavisは、”ポケット口の取り付け強化の向上"のための特許を取得しました。
二人は製造所を手に入れるとすぐに、茶色の棉のダック(帆布等に使われる丈夫で目の密な平織もの)とブルーのデニムで銅リベットを取り付けた"ウエストオーバーオール”を作り始めました。
恐らくダック地はキャンバス地に似ているため、これらのダックパンツ(1906年の火災を免れて残存)が初期の会社のヒストリアンを混乱させたものと思われます。
(注記:調べましたが、ダックとキャンバスはほぼ同じ意味で使用されている様です。薄手がキャンバスとの話もありますが、境界は重なっている様です。ということで、この箇所の記述・見方については多少議論の余地がありそうです。)
一方、デニムはまさにブルーでした。もちろん、Leviは逸話で言われる様に、茶色の生地を青に染めたりはしませんでしたし、ニームから購入もしませんでした。労働着・作業着として、リベットを使用したパンツは完璧であると確信していたため、冒頭で書いた理由からジーンではなくデニムを使用することにしただろうと思います。作業を行う労働者の衣類向けに非常に丈夫な生地が求められる場合にデニムが使われました。
最初のウエストオーバーオールで使用したデニムは、アメリカ東海岸のニューハンプシャー州、マンチェスターにあるアモスケイグ社(Amoskeag Manufacturing Company)製でした。
アモスケイグ社のある地域は、New Englandとして知られ、アメリカの最初の製織り所が建てられたところで、1873年には彼らの生地は高品質で良く知られていました。アモスケイグは1831年に会社組織となり、1860年代中頃にはデニムの生産を行っていました。(この時期は、南北戦争の時期でもあり、アモスケイグ社は銃の製造も数年間行っていました。)
1914年に製織り所内の社内紙に、LS&CO.とアモスケイグの関係についての記事があります。記事の一部を抜粋すると、『多くの廉価な競合品が提供されているにもかかわらず、アモスケイグデニム衣料の売り上げは上昇し続けています。
これは優れたデニムを使用していることと、リネン糸を使用した縫製等優れた製造技術を使用していることによるものです。リーバイス社の成功へのアモスケイグのデニムの貢献度は少なくありません。そして同様にアモスケイグ・デニムの成功にも繋がっています。広告されている通り、他の全てのデニムより優れています。
Levi Strauss & Co. 社において、Jacob Davisが予想した通り、ダックとデニムのウエストオーバーオールは成功をもたらしました。Levi Straussは、ドライグッズの卸業と衣料の製造業の両方のトップとなりました。ウエストオーバーオールに加えて、リーバイス社はジャケットやその他の外出着をデニムとダックを使用して製造しました。無地やプリントした綿モスリン(薄地の木綿織)のシャツ等も出しました。
Levi Straussは1902年、73才で亡くなりました。彼は、Jacob、 Louis、 Abraham、Sigmund Sternの4人の甥達に繁栄する事業を残しました。彼らは、1906年の災難から会社を再構築することに貢献しました。火災からの焼失を免れた現存する最も古いカタログには、素晴らしい多種に渡るデニム製品が掲載されています。
(続き)
p.s. 上記をお読みになって興味を持たれた方は、フォーラム内にある以下のビデオをご覧になることをお勧めします。英語のビデオですが、この記事を読んでいただいていれば、内容的に重なるところも多く、そして、本記事は活字に対して、当時の画面等のふんだんに登場するので、楽しめるかと思います。
The Oldest Pair of Blue Jeans: 最古のジーンズ
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