(昨日のエントリーの続きです。)
それでは、どのようにしてデニムを使用したパンツが"ジーンズ”となったのでしょうか?これについては、大きく分けて二つの説があります。この単語は、イタリアのGenoaの船乗り達がはいていたパンツの様である事から、"Genoese"の派生語なのではないかと言う説。もう一つの説は、ジーンとデニムの生地は、両方共何十年もの間、労働着として使用されてきており、そして、"ジーンズ・パンツ”は、ジーン生地からできている衣類の標準的呼び名であったこと、Levi Strauss氏自身も米国東部から”ジーンズ・パンツ”を仕入れて、カリフォルニアで販売していた事がありました。ジーンの人気がワークウェアとしてさらに大人気のデニムに移った時、”ジーンズ”と言う単語がデニム版のこれらのパンツにも引き継いで使われた様にみえます。
ジーンズと言う単語は、単に、1873年にリーバイス社が最初に作ったリベットが打たれたとても丈夫な労働者のパンツだけでなく、デニムを使用したどのようなタイプのパンツにも使われています。我々(リーバイス社)も1940年代に軽量のデニム製のウエスタン・ウェア・パンツ(西部流パンツ)をジーンズと読んでいました。しかし、アメリカの若者が彼らにとってジーンズがどのようなものであるかを決めるまで、我々は、由緒ある名前の"オーバーオール"にこだわってきました。
1950年代から現在に至るまで、デニムとジーンズは若者、新しいアイディア、反体制、個人主義等と深い関わりがありました。学生の年齢の男女は、60年代にアメリカの大学にお気に入りのパンツ(当然ジーンズです)を穿いて入学すると、アメリカの病んだ社会に対して反対活動を始めました。10年前にもあったこと:反対を唱える人々、反体制運動をする人々、伝統的な体制、仕組み、習慣や権限に対して異を唱える人々はデニムを身につけました。同じ様な理由で、再びデニムはとても悪い評判となりました。
1950年代の後半から、Levi Strauss & Co. は米国外(海外)の事業展開の機会について検討を始めました。第二次世界大戦中と大戦後、日本、イギリス、そしてドイツの人々は、非番時の米国兵士がリーバイス・ジーンズを穿いているのを初めて目にしました。我が社に保管されている資料の中に、革のジャケットやその他の衣類をアメリカのG.I.の持つジーンズと交換していた人からの手紙があります。その人は、我が社にどうしたら別のペアを手に入れることができるのかたずねています。顧客による声が広がり始め、アメリカの雑誌は海外に渡る様になりました。我々に届いた手紙はタイ、英国、南太平洋になるピトケアン諸島など多岐の地域に及び、手紙を書いた人は有名なジーンズを送って欲しいと懇願していました。イギリスの10代の少年達は、アメリカ海軍の貨物船が入港すると、大挙して群がり船から降りる間も与えずに乗船している人からリーバイスジーンズを購入しました。
1960年代の後半までに、ヨーロッパやアジアへのジーンズのしずくは洪水になりました。デニムはそれが生まれた大陸に再び戻ってくる準備が整いました。そして、いくつかの別のアメリカの製品とともに熱狂的に受け入れられることになります。実はヨーロッパに源はありながら、デニムは1960年代の中頃から典型的なアメリカの生地と思われていました。当時、ジーンズはヨーロッパにおいて新しい消費材でした。
数年後、我々は日本市場に進出しました。1964年にある作家は予言的なことを書きました。『デニムは若者、活動、フォーマルでない、アメリカの生活法のシンボルとして先進国社会中に広まっています。同様に、遠く離れたアメリカの巨大で近代的な製織り所によって、優れた品質と性能をもつデニムが大量生産されていることは、アメリカの達成のシンボルです。かつては労働着のためだけだった生地が、今では遊び着、全てのタイプのスポーツウェアとして重要な生地となったことは特筆すべき事です。』
(続く)
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それでは、どのようにしてデニムを使用したパンツが"ジーンズ”となったのでしょうか?これについては、大きく分けて二つの説があります。この単語は、イタリアのGenoaの船乗り達がはいていたパンツの様である事から、"Genoese"の派生語なのではないかと言う説。もう一つの説は、ジーンとデニムの生地は、両方共何十年もの間、労働着として使用されてきており、そして、"ジーンズ・パンツ”は、ジーン生地からできている衣類の標準的呼び名であったこと、Levi Strauss氏自身も米国東部から”ジーンズ・パンツ”を仕入れて、カリフォルニアで販売していた事がありました。ジーンの人気がワークウェアとしてさらに大人気のデニムに移った時、”ジーンズ”と言う単語がデニム版のこれらのパンツにも引き継いで使われた様にみえます。
ジーンズと言う単語は、単に、1873年にリーバイス社が最初に作ったリベットが打たれたとても丈夫な労働者のパンツだけでなく、デニムを使用したどのようなタイプのパンツにも使われています。我々(リーバイス社)も1940年代に軽量のデニム製のウエスタン・ウェア・パンツ(西部流パンツ)をジーンズと読んでいました。しかし、アメリカの若者が彼らにとってジーンズがどのようなものであるかを決めるまで、我々は、由緒ある名前の"オーバーオール"にこだわってきました。
1950年代から現在に至るまで、デニムとジーンズは若者、新しいアイディア、反体制、個人主義等と深い関わりがありました。学生の年齢の男女は、60年代にアメリカの大学にお気に入りのパンツ(当然ジーンズです)を穿いて入学すると、アメリカの病んだ社会に対して反対活動を始めました。10年前にもあったこと:反対を唱える人々、反体制運動をする人々、伝統的な体制、仕組み、習慣や権限に対して異を唱える人々はデニムを身につけました。同じ様な理由で、再びデニムはとても悪い評判となりました。
1950年代の後半から、Levi Strauss & Co. は米国外(海外)の事業展開の機会について検討を始めました。第二次世界大戦中と大戦後、日本、イギリス、そしてドイツの人々は、非番時の米国兵士がリーバイス・ジーンズを穿いているのを初めて目にしました。我が社に保管されている資料の中に、革のジャケットやその他の衣類をアメリカのG.I.の持つジーンズと交換していた人からの手紙があります。その人は、我が社にどうしたら別のペアを手に入れることができるのかたずねています。顧客による声が広がり始め、アメリカの雑誌は海外に渡る様になりました。我々に届いた手紙はタイ、英国、南太平洋になるピトケアン諸島など多岐の地域に及び、手紙を書いた人は有名なジーンズを送って欲しいと懇願していました。イギリスの10代の少年達は、アメリカ海軍の貨物船が入港すると、大挙して群がり船から降りる間も与えずに乗船している人からリーバイスジーンズを購入しました。
1960年代の後半までに、ヨーロッパやアジアへのジーンズのしずくは洪水になりました。デニムはそれが生まれた大陸に再び戻ってくる準備が整いました。そして、いくつかの別のアメリカの製品とともに熱狂的に受け入れられることになります。実はヨーロッパに源はありながら、デニムは1960年代の中頃から典型的なアメリカの生地と思われていました。当時、ジーンズはヨーロッパにおいて新しい消費材でした。
数年後、我々は日本市場に進出しました。1964年にある作家は予言的なことを書きました。『デニムは若者、活動、フォーマルでない、アメリカの生活法のシンボルとして先進国社会中に広まっています。同様に、遠く離れたアメリカの巨大で近代的な製織り所によって、優れた品質と性能をもつデニムが大量生産されていることは、アメリカの達成のシンボルです。かつては労働着のためだけだった生地が、今では遊び着、全てのタイプのスポーツウェアとして重要な生地となったことは特筆すべき事です。』
(続く)
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