今回は、映画"The Wild One"の脚本の元となった"The Hollister Riot"(ホリスター騒動)について紹介します。
以下、ホリスターの騒動について、英語のWikipediaの記載内容を抜粋して訳したものです。
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第二次世界大戦後、数多くの兵士達は戦地から帰ってきてました。そして、彼らの多くは普通の市民の生活に適応する事が困難な状態にありました。
彼らは戦争での生活におけるアドレナリンの高揚と冒険の代わりを探し求めていました。興奮と危険を感じることを強く求める者達にとって市民生活は単調でつまらないものでした。
ある者は軍隊の男達の間の強い絆と友情を求めていました。さらに、ある男達は戦争の思い出と記憶に残る恐怖による精神的な障害に対抗する術を探していました。 そのため、冒険、興奮、危険と絆の戦争経験の代わりとしてモータサイクリングが、かつてない程の人気となりました。
1930年代、カリフォルニア州の小さな街ホリスターは、独立記念日の7月4日に年に一度のジプシーツアー(各地のモーターサイクリストのクラブのメンバーがある特定の目的地に向かって集合するツアー)を開催していました。
ジプシーツアーは、American Motorcyclist Association(全米モータサイクリスト連盟)が認可したレースツアーのイベントで全米中のモータサイクリストが集まる最も適した場であると考えられていました。
ホリスターは人口4500人のとても小さな街のため、この年に一度のイベントは、街の主要な経済源となり、年を通した生活を支える大きなイベントとなっており、モーターサイクリスト達を歓迎していました。
第二次世界大戦中は、イベントはキャンセルされていましたが、1947年ホリスターにおいてジプシーツアーは再開となりました。 1947年7月3日、ホリスターにおいてその祭は始まりました。
しかし、冒頭に書いた様にモータサイクルの人気は劇的に上昇しており、この人気の上昇がこのイベントの一つの主要な問題”予想を大幅に上回る参加者数”の原因の一つとなってしまいました。
小さな街であったホリスターは、イベント時に街の人口の2倍の4000人程のモーターサイクリスト達であふれてしまいました。
カリフォルニア全域、そしてコネチカットやフロリダ等の遠く離れた地域を含む全米中からからモータサイクリスト達がやってきました。 参加者の約10%が女性でした。街はその様な多数の参加者達を迎える用意は全くできてませんでした。
当初は、ホリスターのバーは、大人数のお客はビジネスとして良いのでモーターサイクリスト達を歓迎しました。 しかし、すぐに、彼らはホリスターにおいて問題を引き起こし始めました。 多量のアルコールを摂取して、ホリスターの小さな道々を酔っぱらいながらバイクで走り回りました。
彼らはけんかをしたり、バーに損傷を与えたり、ビールのボトルを窓に投げつけたり、道でレースをしたり、その他の酔っぱらいの行為をしました。
同様に大きな宿泊の問題がありました。バイカー達は歩道、公園、藁の集積所、個人宅の芝生等で寝なければなりませんでした。7月4日の夜には、"彼らは制御不能となりました。
これらはホリスターの7人の警察官の規模では手に負えないものでした。警察は銃を使用すると警告したり、できる限りの酔っぱらいを逮捕したりして、モーターサイクリスト達の行為をやめさせようと試みました。
バーは閉店時間の2時間前にあえて店じまいをしたり、ビールの販売を拒否して飲酒をやめさせようと試みたりしました。
"大きな混乱なだけだった。ただモーターサイクルを乗り回したり大騒ぎをしているだけで、実際に危害を及ぼす事はなにもしていない。”との目撃者の証言もありました。
大騒ぎは7月5日中まで続き、その後、ゆっくりと終息に向かいました。週末の終わりの時点ではモーターサイクリスト達は街を去り、騒ぎは収まりました。
7月4日の独立記念日の週末の終わりに、この非公式な騒動は数千ものビールのボトルとその他のゴミが遺棄され、店頭等に若干の損傷がありました。
約50人が逮捕され、そのほとんどは酔っぱらい、危険な運転、秩序を乱す様な軽犯罪によるものでした。 約60人がけがをしたと報告され、内3人は脚や頭蓋骨の骨折等の重傷でした。
週末の大騒動を目の当たりにしなければならなかった事を除いて、ホリスターの住民は被害を被りませんでした。 街の運営のメンバーは、「幸運な事に、甚大な損害はなかったと思われます。人騒がせなバイク乗り達は、街よりも自分たちを傷つけました。」と語っています。
(抜粋、訳終わり)
この騒動について、メディアは大きく取り上げ、大きな話題となりました。特にLife Magazineに掲載された写真(下に添付)は、全米に衝撃を与えました。
それがこの写真です。ただし、この写真の信憑性について異を唱える意見があります。多くの目撃者は、写真はでっちあげられたものだと語っています。
その一つがこの写真の後ろに立っている人物、Gus Deserpaは騒動の後のインタビューで、「二人の男がボトルを集めて路上に散らしているのを見た。彼らはそのボトルの破片の集まりのところにモーターサイクルを置いた。しばらくして、酔っぱらった男がバーから出てきたところを彼らが呼び止めてモーターサイクルに乗せて写真を撮り始めた。」と語っています。
一方で、この写真を撮った新聞記者の同僚は、彼はでっち上げの写真をねつ造する様なことはしない。ごまかした写真を撮る様な人物ではない、とても倫理的な人物だと反論しています。
以下、この騒動の時の写真です。

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Hollister Riot / ホリスター騒動
(Wikipedia記事から部分抜粋し邦訳)第二次世界大戦後、数多くの兵士達は戦地から帰ってきてました。そして、彼らの多くは普通の市民の生活に適応する事が困難な状態にありました。
彼らは戦争での生活におけるアドレナリンの高揚と冒険の代わりを探し求めていました。興奮と危険を感じることを強く求める者達にとって市民生活は単調でつまらないものでした。
ある者は軍隊の男達の間の強い絆と友情を求めていました。さらに、ある男達は戦争の思い出と記憶に残る恐怖による精神的な障害に対抗する術を探していました。 そのため、冒険、興奮、危険と絆の戦争経験の代わりとしてモータサイクリングが、かつてない程の人気となりました。
1930年代、カリフォルニア州の小さな街ホリスターは、独立記念日の7月4日に年に一度のジプシーツアー(各地のモーターサイクリストのクラブのメンバーがある特定の目的地に向かって集合するツアー)を開催していました。
ジプシーツアーは、American Motorcyclist Association(全米モータサイクリスト連盟)が認可したレースツアーのイベントで全米中のモータサイクリストが集まる最も適した場であると考えられていました。
ホリスターは人口4500人のとても小さな街のため、この年に一度のイベントは、街の主要な経済源となり、年を通した生活を支える大きなイベントとなっており、モーターサイクリスト達を歓迎していました。
第二次世界大戦中は、イベントはキャンセルされていましたが、1947年ホリスターにおいてジプシーツアーは再開となりました。 1947年7月3日、ホリスターにおいてその祭は始まりました。
しかし、冒頭に書いた様にモータサイクルの人気は劇的に上昇しており、この人気の上昇がこのイベントの一つの主要な問題”予想を大幅に上回る参加者数”の原因の一つとなってしまいました。
小さな街であったホリスターは、イベント時に街の人口の2倍の4000人程のモーターサイクリスト達であふれてしまいました。
カリフォルニア全域、そしてコネチカットやフロリダ等の遠く離れた地域を含む全米中からからモータサイクリスト達がやってきました。 参加者の約10%が女性でした。街はその様な多数の参加者達を迎える用意は全くできてませんでした。
当初は、ホリスターのバーは、大人数のお客はビジネスとして良いのでモーターサイクリスト達を歓迎しました。 しかし、すぐに、彼らはホリスターにおいて問題を引き起こし始めました。 多量のアルコールを摂取して、ホリスターの小さな道々を酔っぱらいながらバイクで走り回りました。
彼らはけんかをしたり、バーに損傷を与えたり、ビールのボトルを窓に投げつけたり、道でレースをしたり、その他の酔っぱらいの行為をしました。
同様に大きな宿泊の問題がありました。バイカー達は歩道、公園、藁の集積所、個人宅の芝生等で寝なければなりませんでした。7月4日の夜には、"彼らは制御不能となりました。
これらはホリスターの7人の警察官の規模では手に負えないものでした。警察は銃を使用すると警告したり、できる限りの酔っぱらいを逮捕したりして、モーターサイクリスト達の行為をやめさせようと試みました。
バーは閉店時間の2時間前にあえて店じまいをしたり、ビールの販売を拒否して飲酒をやめさせようと試みたりしました。
"大きな混乱なだけだった。ただモーターサイクルを乗り回したり大騒ぎをしているだけで、実際に危害を及ぼす事はなにもしていない。”との目撃者の証言もありました。
大騒ぎは7月5日中まで続き、その後、ゆっくりと終息に向かいました。週末の終わりの時点ではモーターサイクリスト達は街を去り、騒ぎは収まりました。
7月4日の独立記念日の週末の終わりに、この非公式な騒動は数千ものビールのボトルとその他のゴミが遺棄され、店頭等に若干の損傷がありました。
約50人が逮捕され、そのほとんどは酔っぱらい、危険な運転、秩序を乱す様な軽犯罪によるものでした。 約60人がけがをしたと報告され、内3人は脚や頭蓋骨の骨折等の重傷でした。
週末の大騒動を目の当たりにしなければならなかった事を除いて、ホリスターの住民は被害を被りませんでした。 街の運営のメンバーは、「幸運な事に、甚大な損害はなかったと思われます。人騒がせなバイク乗り達は、街よりも自分たちを傷つけました。」と語っています。
(抜粋、訳終わり)
この騒動について、メディアは大きく取り上げ、大きな話題となりました。特にLife Magazineに掲載された写真(下に添付)は、全米に衝撃を与えました。
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Photo by Barney Petersen of the San Francisco Chronicle |
その一つがこの写真の後ろに立っている人物、Gus Deserpaは騒動の後のインタビューで、「二人の男がボトルを集めて路上に散らしているのを見た。彼らはそのボトルの破片の集まりのところにモーターサイクルを置いた。しばらくして、酔っぱらった男がバーから出てきたところを彼らが呼び止めてモーターサイクルに乗せて写真を撮り始めた。」と語っています。
一方で、この写真を撮った新聞記者の同僚は、彼はでっち上げの写真をねつ造する様なことはしない。ごまかした写真を撮る様な人物ではない、とても倫理的な人物だと反論しています。
以下、この騒動の時の写真です。
写真を見ても、小さな町にバイカー達が溢れ、混乱状態にあったことは明らかです。バイカー達のお祭りとも言えますが、やはり「騒動(Riot)」と名付けられる程の出来事だったと思います。
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自分も服の着こなしを映画からインスピレーション受けることが多いので参考になります。「The Wild One」< 乱暴者は当時の日本の若者にも多いに影響受けたみたいですね。自分の年老いた父も若い頃はバイカーだったそうです。今度どういう車種に乗ってたか聞いてみようかと思います。「不良のファッションスタイル」って時代時代で大きな影響力がありますね 今は「ストリートスタイル」ってとこですか 自分が映画でジーンズって良いなって思った(ジーンズって用語も知らなかったと思います)は子供の頃TV映画で見た「荒野の用心棒」(A Fistful of Dollars)だと思います。色々ウェブで検索したらあれはクリント・イーストウッドが自分で持ち込んだブラックジーンズみたいですね(ラングラー社製?) 映画におけるジーンズ(ワーカースタイル)はまたおいおい
返信削除shouji tomodaさん、
返信削除コメントありがとうございます。この記事もちょっとマニアック(?)すぎるかなと思っていたのですが、コメントを頂き嬉しく思います。
この映画での衣装は、今見てもインパクトがあるので、当時はきっと影響力がもの凄くあったと思います。
記事にも少し書きましたが、この時代、戦場から帰ってきた若者達で、通常・一般の社会生活に適合できない人達が多くいた様です。
50年代の反社会的な若者達から、60年代には一般の若者を含め大多数の若者達が人権運動、反戦運動等で当時の社会構造を変えようとする動きになっていったのはとても興味深いところです。
この映画がいつ日本で上映されたのか、ネットで探してみましたが分かりませんでした。終戦から8年後のことなので、当時の日本がどんな感じだったのかについても興味があります。
日本では、30年代は金持ちを中心とした”カミナリ族”、40年代は"サーキット族/ナナハン族”等があった様です。早く走るのが好きな人たちなだけだった様で、この頃までは警察も世間も寛容だった様です。40年代後半から”暴走族”へと変化し、騒音等、社会問題化となりました。
お父さんはカミナリ族だったのでしょうか?どんな種類のバイクに乗っていたのか、是非、聞いてみて下さい。
私はクリント・イーストウッドのファンでした。彼のファッションには目がそれ程いっていませんでした。(笑)