レッドウイング・ヘリテージのサイトのHISTORYのページを開くと以下の写真とコピーが目に飛び込んできます。
IT ALL BEGAN IN 1905 IN A SMALL MINNESOTA TOWN CALLED RED WING.
1905年、ミネソタの小さいレッドウイングと言う名の街から全ては始まった。
(写真: Red Wing Heritage)
以下、FUNDINGUNIVERSEのサイトのレッドウイングの歴史を部分的に訳して、紹介します。
1905年、ドイツからの移民のチャールズベックマンは、彼の持つ靴の販売店を閉鎖し、14人の投資家達と共にRed Wing Shoe Companyを起業します。その若い会社は、当初一日10時間で110足の靴を製造していました。
レッドウイング・ブランドは、農業、林業、鉄鋼業、鍛冶、鉄道の産業のブームとそれまで未開拓の市場であったそれらの業務に特化した靴を提供することで着実に成長を遂げました。
レッドウイングは顧客の需要に応えるため業務に特化した専用の靴を、幅広いサイズ(幅と長さ)を用意し、異なる特徴を持つ業務用の製品ラインを広げていきました。
1908年、レッドウイングはウェルト構造の靴を提供し、その快適性と耐久性に優れた靴は、当時のレッドウインの主要顧客であった農民達に好評でした。順調な需要に対応するため、4階建ての工場を建設しました。(Plant 1です。)新しい工場は、1906年の4倍の一日450足の生産能力がありました。
(写真: Red Wing Heritage)
1912年、レッドウイングはブラックとブラウンの”農民達の靴(the farmer's shoe"として一般に知られる"Chief"ラインを追加しました。伝統的な初期の農作業靴のウェルト構造に加えて、Chiefは特別の鞣しで肥やしに耐久性がある革を使用しました。
数多くの靴のデザインを行うことで、 レッドウイングはさらに成功していきます。レッドウイングは、第一次世界大戦が勃発した際、軍の需要に応え、1918年、"fit all feet"で最大限の快適性と耐久性のためのデザイン、マンソンU.S. Army Lastの企画に合致した製品を生産します。
大戦後も、マンソンは売り上げ第一位を維持し、その後50年以上に渡って他の人気の靴のデザインに影響を与えました。
1930年代、レッドウイングは危険度が高い仕事からつま先を保護するスティールトゥのラインを加えました。そのラインは、人気を獲得し、数種類のモデルが開発されました。その内の一つは、1970年代のパンク文化の流行時に人気となりました。
また、30年代には、 オイルレジスタントで、とても快適なデザインの”オイルキング(Oil King)"と言う名のブーツを開発し、油田の労働者達に受け入れられました。
その状況の中で、レッドウイングの初期の数十年は、大きな経営陣の変更が行われたことでも知られています。1911年、ベックマンはリタイアし、株主のC.H. Boxrudが社長を引き継ぎました。
(文脈から、経営陣の入れ替えを行うためベックマンは退職させられた感じがします。アメリカでは良くあることです。)
1914年に”コストマン”(経理担当、コスト管理等の責任者)としてJ.R. Sweasyが入社し、1918年にgeneral manager(事業責任者)となりました。2年後、Sweasyは株式を購入して会社の経営権を握りました。
1921年のBoxrudの死後、Sweasyはレッドウイング・シューカンパニーの社長となりました。
ラバーの開発は、レッドウイングの初期の数十年のさらなる成功に結びつきました。1930年代の初め、Sweasyはラバーコードソールをレザーの代わりに使用することを導入することにしました。
Sweasyの新しい素材を使う賭けは成功し、利益の工場とトレンドセッティングの証しとなりました。レッドウインのシューズに採用されたGro Cordのソールとグッドイヤーヒールは、靴業界の標準となり、合成素材の事実上の独占により会社は更に成長しました。
耐久性に加え低コストであるため、レッドウイングの新素材は普及していきました。大恐慌の間、合成素材は、コスト効率が強く求められる靴を生産することに役立ちました。
モデル番号99は、99セントの価格から名付けられ、経済収支が落ち込んだ時、(モデル99の生産により)工場の稼働を維持しました。
レッドウイングは順調に成長し、第二次世界大戦後、会社は全米、そして海外の市場に事業を拡大しました。米国政府が数百の軍用の靴のメーカーに仕様規格に合致する239の異なるサイズと幅の注文を行ったため、大戦は過去に例のない 需要となりました。
1949年には、William D. Sweasyが彼の父の死後、後を継いで社長となりました。レッドウイングは、緊急度の高い需要や厳しい要求に応えられる信頼性を持つことが証明されました。
新社長のSweasyは事業部ごとにより大きな権限を与え、各事業部に経営スペシャリストのチームを編成する会社の組織変更を行いました。Sweasyは新しい販売戦略として、西海岸にレッドウイング直営店をオープン、その後、東海岸へも進出しました。
この組織変更は直ちに効果を発揮、1952年にアイリッシュセッター877の大成功等により過去最大の利益を獲得しました。そして、競争の激しいブーツ市場において、レッドウイングの 強力な市場位置を確保しました。
アイリッシュセッターの大成功は、1965年にVasqueアウトドア事業部の設立を導きました。その事業は、1970年代のハイキングブーツのブームで業績を上げ、1980年代と90年代の軽量のハイキングブーツとウォーキングシューズのビジネスに繋がりました。
その状況の中で、1972年、Arlo "Ole" Jensenが社長となり、Sweasyは会長となりました。
この後、1980年代以降の話となります。ここで一旦切ります。
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