戦後の俳優の中でもトップスターとして、映画史に名を残し、現在も世界中に多くのファンを抱えるスティーブ・マックイーンは、非常に複雑で不幸な生い立ちを持っています。
本記事は英語版のWikipediaに記載されているマックイーンの幼少期について訳したものです。途中でコメントを加えています。コメントはイタリック体にしています。
This post is a translated version in Early life of Steve McQueen from Wikipedia. http://en.wikipedia.org/wiki/Steve_McQueen
I also added some notes. Notes are in Italic font.
テレンス・スティーブ・マックイーンは、インディアナ州インディアナポリスの郊外のビーチグローブという名の街で生まれました。
バーンストーミングのスタントパイロットの彼の父ウイリアム・テレンス・マックイーンは、母ジュリア・アンと出会ってから6ヶ月後に彼女を捨てました。 母、ジュリア・アンは反社会的なアルコール依存症の売春婦であったと言われています。
コメント:バーンストーミングは飛行機の上で曲芸をする空中サーカスです。
スティーブはミドルネーム、テレンスがファーストネームです。そのテレンスは母を捨てた父親のミドルネームでした。恐らく、マックイーンは彼のファーストネームが嫌でミドルネームを使っていたと思われます。
1933年、ジュリアは小さい子供の面倒を見る事ができないため、マックイーンをミズーリー州スレーターの祖父母、ビクターとリリアンのところに預けます。
その後すぐに大恐慌が起こります。マックイーンは祖父母とともに祖母リリアンの兄弟クロードのスレーターにある農場に引っ越します。マックイーンは、そこでローマ・カトリック教徒として育てられます。
コメント:英語のWikipediaの人の紹介では、ほとんどの場合、どの宗教、宗派で育ったかが述べられています。特にキリスト教の場合はそうです。
大叔父、クロードの農場では良いひとときを過ごす事ができました。マックイーンは『大叔父は大変良い人で、非常に強く、公平な人だった。彼から多くのことを学んだ。』と語っています。
マックイーンの4才の誕生日に、クロードは赤の三輪車をプレゼントします。後にマックイーンは、レースへの興味は三輪車をもらったことがきっかけだったと語っています。
彼が8才の時、母親に再び引き取られ、彼女の新しい夫と一緒にインディアナポリスで暮らすことになりました。
農場を去る時、心に刻み込まれる特別な思い出を得ました:”私が農場を去る日、クロード大叔父は個人的なお別れのプレゼントを渡してくれました。
それは文字が刻まれた金の懐中時計でした。そこには、”私の息子スティーブへ”と書かれていました。
コメント:原文は"To Steve - who has been a son to me."です。一緒にいる間ずっと、私にとって息子だった。そしてこれからもそうだという意味が込められていると思います。
ディスレクシアで、子供の時の耳の感染が原因で聴覚障害があるマックイーンは、新生活になじむ事ができませんでした。
コメント:ディスレクシアについてのWikipediaの冒頭の説明を以下に添付します。
新しい義理の父は彼にひどい暴力を振るったため、当時9才のマックイーンは家出し路上で生活する様になりました。家出してすぐに彼はストリートギャングと行動を共にするようになり、軽犯罪を犯していました。
マックイーンの態度・行動を制御できないため、彼の母は彼をスレーターの農場に送り返しました。
マックイーンが12才の時、母ジュリアはクロードに、ロスアンジェルスの新しい家に住むことになったので、彼を返して欲しいと手紙を書いて送りました。ジュリアは2度離婚して、3回目の結婚をしたところでした。
コメント:全く身勝手な母親だとあきれてしまいます。
彼と新しい義理の父親は直ちに衝突します。マックイーンは、その義理の父ことを、彼と母に拳を使うことを全く厭わない”A prime son of a bitch (本当に性根腐りきった輩的な意味)”だった語っています。
マックイーンは再び反抗をし始めたため、クロードのところに再び送り返されました。それがクロードと一緒に住む最後になりました。
14才の時、マックイーンは別れを告げないでクロードの農場を去り、短期間サーカスに属しました。そして、ロサンジェルスの母と義父のところに戻り、ギャングメンバーと犯罪の生活を再び始めます。
マックイーンは盗みの罪で警察に捕まり、彼の義父に引き渡されました。義父は彼を徹底的に傷めつけ、階段の踊り場に投げ落として、ファイトは終わりました。
マックイーンは下から義理の父に睨み返して、「お前の汚い手で俺に触ったら、絶対に殺してやる。」と言いました。
その出来事の後、義理の父は彼の母に、”マックイーンは矯正不可能であるため、彼をカリフォルニア州チノにある少年収容所に送還する”裁定の裁判所の書類にサインをさせました。
そこで、マックイーンは変わり始め、落ち着いて成長していきます。最初は他の少年たちと仲良くすることができませんでした。
「収容所の少年たちは、月に一度バスに乗って映画を見るために町に行く機会があったんだ。そして、収容所の一人が仕事をうまくできなかったためにその機会を失う。そんな時、彼らがどんな状態か良く想像できるだろ。俺は自分の得た機会を何度か彼らにあげた。そして彼らは仲間として迎えるようになり、信頼を得た。院の別の少年達は恩を返してくれた。」
そうして、マックイーンは院生活のルールや条件を決める委員会の役員に選ばれ、模範的な院生のモデルとなりました。その結果として、16才で出所しました。
彼が後に有名になった時、彼は定期的に少年たちと話をしに収容所を訪問し、収容所との関係を生涯継続しました。
関連ブログ記事: スティーブマックイーン:海兵隊から俳優の下積み時代、そして人気役者へ
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(Photo: Wikipedia) |
This post is a translated version in Early life of Steve McQueen from Wikipedia. http://en.wikipedia.org/wiki/Steve_McQueen
I also added some notes. Notes are in Italic font.
テレンス・スティーブ・マックイーンは、インディアナ州インディアナポリスの郊外のビーチグローブという名の街で生まれました。
バーンストーミングのスタントパイロットの彼の父ウイリアム・テレンス・マックイーンは、母ジュリア・アンと出会ってから6ヶ月後に彼女を捨てました。 母、ジュリア・アンは反社会的なアルコール依存症の売春婦であったと言われています。
コメント:バーンストーミングは飛行機の上で曲芸をする空中サーカスです。
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(Photo: all-things-aviation.com) |
1933年、ジュリアは小さい子供の面倒を見る事ができないため、マックイーンをミズーリー州スレーターの祖父母、ビクターとリリアンのところに預けます。
その後すぐに大恐慌が起こります。マックイーンは祖父母とともに祖母リリアンの兄弟クロードのスレーターにある農場に引っ越します。マックイーンは、そこでローマ・カトリック教徒として育てられます。
コメント:英語のWikipediaの人の紹介では、ほとんどの場合、どの宗教、宗派で育ったかが述べられています。特にキリスト教の場合はそうです。
大叔父、クロードの農場では良いひとときを過ごす事ができました。マックイーンは『大叔父は大変良い人で、非常に強く、公平な人だった。彼から多くのことを学んだ。』と語っています。
マックイーンの4才の誕生日に、クロードは赤の三輪車をプレゼントします。後にマックイーンは、レースへの興味は三輪車をもらったことがきっかけだったと語っています。
彼が8才の時、母親に再び引き取られ、彼女の新しい夫と一緒にインディアナポリスで暮らすことになりました。
農場を去る時、心に刻み込まれる特別な思い出を得ました:”私が農場を去る日、クロード大叔父は個人的なお別れのプレゼントを渡してくれました。
それは文字が刻まれた金の懐中時計でした。そこには、”私の息子スティーブへ”と書かれていました。
コメント:原文は"To Steve - who has been a son to me."です。一緒にいる間ずっと、私にとって息子だった。そしてこれからもそうだという意味が込められていると思います。
ディスレクシアで、子供の時の耳の感染が原因で聴覚障害があるマックイーンは、新生活になじむ事ができませんでした。
コメント:ディスレクシアについてのWikipediaの冒頭の説明を以下に添付します。
学習障害の一種で、知的能力及び一般的な理解能力などに特に異常がないにもかかわらず、文字の読み書き学習に著しい困難を抱える障害である。顕著な例では数字の「7」と「seven」を同一のものとして理解が出来なかったり、文字がひっくり返って記憶されたりして正確に覚えられない、など様々な例がある。アメリカでは2割近くの人々が何らかの形で読字障害に関わる症状を持つという調査結果もある
新しい義理の父は彼にひどい暴力を振るったため、当時9才のマックイーンは家出し路上で生活する様になりました。家出してすぐに彼はストリートギャングと行動を共にするようになり、軽犯罪を犯していました。
マックイーンの態度・行動を制御できないため、彼の母は彼をスレーターの農場に送り返しました。
マックイーンが12才の時、母ジュリアはクロードに、ロスアンジェルスの新しい家に住むことになったので、彼を返して欲しいと手紙を書いて送りました。ジュリアは2度離婚して、3回目の結婚をしたところでした。
コメント:全く身勝手な母親だとあきれてしまいます。
彼と新しい義理の父親は直ちに衝突します。マックイーンは、その義理の父ことを、彼と母に拳を使うことを全く厭わない”A prime son of a bitch (本当に性根腐りきった輩的な意味)”だった語っています。
マックイーンは再び反抗をし始めたため、クロードのところに再び送り返されました。それがクロードと一緒に住む最後になりました。
14才の時、マックイーンは別れを告げないでクロードの農場を去り、短期間サーカスに属しました。そして、ロサンジェルスの母と義父のところに戻り、ギャングメンバーと犯罪の生活を再び始めます。
マックイーンは盗みの罪で警察に捕まり、彼の義父に引き渡されました。義父は彼を徹底的に傷めつけ、階段の踊り場に投げ落として、ファイトは終わりました。
マックイーンは下から義理の父に睨み返して、「お前の汚い手で俺に触ったら、絶対に殺してやる。」と言いました。
その出来事の後、義理の父は彼の母に、”マックイーンは矯正不可能であるため、彼をカリフォルニア州チノにある少年収容所に送還する”裁定の裁判所の書類にサインをさせました。
そこで、マックイーンは変わり始め、落ち着いて成長していきます。最初は他の少年たちと仲良くすることができませんでした。
「収容所の少年たちは、月に一度バスに乗って映画を見るために町に行く機会があったんだ。そして、収容所の一人が仕事をうまくできなかったためにその機会を失う。そんな時、彼らがどんな状態か良く想像できるだろ。俺は自分の得た機会を何度か彼らにあげた。そして彼らは仲間として迎えるようになり、信頼を得た。院の別の少年達は恩を返してくれた。」
そうして、マックイーンは院生活のルールや条件を決める委員会の役員に選ばれ、模範的な院生のモデルとなりました。その結果として、16才で出所しました。
彼が後に有名になった時、彼は定期的に少年たちと話をしに収容所を訪問し、収容所との関係を生涯継続しました。
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